コルドバの路地裏にて

 

プロフィール

  • 生年:昭和60(1985)年1月
  • 出身地:神奈川県横須賀市
  • 出身校:KBKビューティーカレッジ(今は名前変わってますね)
  • 趣味:お絵描き、建築探訪、お菓子食べたり作ったり、旅行、鉄道、お堅めの時事ネタ、雑学全般
  • 好きなもの:甘いもの全般、辛いもの(エスニック料理)、地図、猫
  • 嫌いなもの:電子レンジで温めた鶏肉(臭いから)、弱冷房車(暑いから)
  • 座右の銘:情けは人の為ならず
         誰かの毒になれなければ誰の薬にもなれない
         ドリアンとなるもイチゴとなるなかれ

 

これが地元横須賀らしい景色です

 

幼少期

美容師をしていた親の都合で、土日は主に母方の祖父母の家に預けられていました。

祖父とのお出かけの影響で電車が好きな子供になった自分。

ずっと電車の絵ばっかり描いてましたね。ボールペンで。

お絵描きも好きだったんです。カレンダーとかチラシの裏にいっつもお絵描きしてました。

母に連れられて父の店(美容室)に行ったときも面白くないから待ち合いでずっと絵を描いてて、

そうするとご高齢のお客様が「ぼくお絵描き上手だねー」とか言ってお小遣いくれるんですよね。

本当にお絵描きばっかりして電車の話しかしない子供でしたよ。

 

この写真にある右側の待ち合い席で絵を描いてました

 

今思えば小学校上がる頃ぐらいまでが自分の人生で最初の大きな山だった気がします。

記憶力も良くて賢く、お絵描きも上手で、なぜか同世代~大学生ぐらいまでの女子にモテる子供。

あれ何だったんでしょうねっていう感じですよ。

幼少期過ぎてからはほぼずっと谷底みたいな人生でしたから。

幸運の大半を幼少期に使い果たした系男子だったのかもしれません。

 

小中学生

小学校に上がってしばらく経つ頃には、ただの気持ち悪い電車オタクになっていました。

女子に囲まれてたあのかわいい子供はどこに行ったんだっていう。

単なる気弱な人見知りになってましたね。

背は低い不器用でスポーツできない人前でしゃべれない給食いつまでも食べてる…そういう子供。

この頃には明らかに理数系ではなく文系であることもはっきりしてきました。

得意科目は国語と社会と図工。

本読んで地図見て電車の話してお絵描きばっかりしてました。

それ以上に毎日ずっとゲームしてたな。毎日ほんとにシムシティばっかり。

でも親の店行ったときに手伝いはし始めましたね。床掃いたりタオル干したりロッド洗ったり。

美容業との関わりはこの頃ぐらいが最初ですかね。

ただ、父親がしていた美容師という仕事が…自分には決して楽な仕事には見えませんでした。

忙しいのか昼メシ食えずに母親の作った弁当を全く手をつけずに持って帰って来るし、

かかとはガチガチにひび割れて、爪も染まって真っ茶色で、いつも背中痛いから踏んでくれと言う。

なんかすげえしんどそうな仕事だなというふうにしか見えなかったんですよ。

その一方で、お客様がお金払ってくれてるのに「ありがとうございました」とも言ってくれるわけで。

お客様の見た目をきれいにしたら笑顔になって、代金もらえるどころかお礼の言葉までいただける。

家で父親見てるとしんどそうなんだけど、でもなんかすごくいい仕事だなって思ったんですよ。

これこそが自分が美容師を目指そうと思った『原点』です。

後で振り返ってみたらそこが原点だった…と気付いただけの話なんですけどね。

 

自分が子供の頃からほぼ変わっていない『原点』の場所。親父もっと店片付けろや…

 

中学に上がってからも気持ち悪い傾向は全く変わりませんでした。

電車と地図ばっか見てお絵描きとゲームしかしてないのは相変わらず。

ファッションとか美容なんて一切興味なかったですからね。

美容師いい仕事だなって思ってるわりには目指そうとするに必要なもの一切に興味がなかったです。

美術部に入ったら女子ばっかりで、わざと聞こえるぐらいの声で陰口言われるような…

まぁ…そういう男子でしたよ。でも仕方ないです。

自分がいま中学の卒アルに写る自分の写真見てもシンプルに気持ち悪いですから。

なんかヤバめの少年犯罪でも犯しそうなね、メガネかけたニキビ面のニヤけたオタクでしたよ。

本当に気持ち悪かったので目だけは黒線入れて伏せた状態で載せましょうかね。

こうするとより犯罪者感が増しますね。

 

このぼつぼつニキビ顔でも手軽な治し方ありますよ

  

高校~専門学校

数学どころか算数からダメな自分が「ここなら数学やらなくていいんだ」っていう、

そういう不純な理由で選んだ神奈川県立岩戸高校にあった外国語コース。

ここに進んだことは自分の人生にとって大きな影響がありました。

キャラの濃い人ばっかり集まってて「普通でいようとしなくていいんだ」と思えたこと、

そして第二外国語でスペイン語を選んだことですね。

ここでスペイン語やってなかったらうちの店の名前をRicosにしてなかったと思うので。

高校入ってから初めてしたバイトでスーパーのレジに配属されてしまい、

これが結果として自分の人生で今に至るまで続く接客業の根幹になっています。

 

【◎みなさまのお墨付き】私の接客の原点は西友です

    社会人になってから美容師を約17年、途中パチンコ屋とコンビニでのバイト掛け持ちが約1年と少し。 自分がこれまで経験したことがある仕事は接客業だけです。 社会人…

 

しかし、いま振り返ったらそこで接客業の根幹が作られたとは言うものの、

相変わらずファッションとかおしゃれには疎いままだったんですよ。

なんせバイト先のスーパーには高校の制服で勤務していたために私服を着る機会も理由も特になく、

なので「どう着こなしたらいいか」以前に「どうやって服を選んで買うのか」もわかってない。

趣味は鉄道から建築物にやや変わったものの、おしゃれにはそんなに興味もなかった。

ダサい老け顔の高校生でしたね。コンビニでも居酒屋でも年確されたことないしな。

そんな自分にも高校3年になって進路を決めるときが来ます。

いろいろやりたいことはあったのですが、結論から言えば消去法で美容師を選びました。

おそらく自分の持っていた選択肢で一番向いてないであろう美容師を。

一番向いていないと自分でわかってるにもかかわらず美容師を選んだ理由。

それが小学生のときに父親が働いているところを見て思ったあの『原点』です。

 

専門学校は横浜にあるKBKビューティーカレッジというところに通っていました。

今は当時とは名前も場所も変わってしまったんですけども。

いや…ね、ほんとに…こんなにも自分は何もできないのかと。

クラスにいる周りの人らと比べて本当に、あまりにも何もできない。

美容師を選んだのは間違ったなと毎日思ってましたね。

ワインディング(パーマ巻くやつ)も遅い、カットもガタガタ。技術が全くできない。

なんで同じように授業受けて練習してるのにここまで自分は下手なのか。

あー、根本的に向いてないんだな、センスないんだなというのを非常に痛感しました。

だからこそ自分には努力をする以外は何もなかったわけです。

国家試験の課題が決まってからは毎日残って何時間も練習して…まぁこれはみんな同じですけど。

でもね、とにかくやるしかなかったんですよ。

センスない人間はひたすら努力してやっていかなきゃ技術なんて身に付かないし上達しない。

おかげさまで国家試験には無事に合格して美容師になることができました。

相変わらずセンス全くなかったですけどね。

 

普通なんてつまんないからみんなぶっ飛んではみ出して変人になろうよ

  いつも長い文章のブログですがお読みくださる方には本当に感謝です。 今回はタイトルも長くなりました。 今日のお話は『普通』ってどうなのよ、ということですね。 普…

 

美容師として社会へ

新卒で働いた美容室は横浜の古い繁華街の外れにありまして。

もう長く通ってくださってる高齢の常連おばあちゃん様ばかりのサロンでした。

ただ、数十年と長く営業を続けている間に横浜の中心街そのものが移動してしまったせいで、

そこのサロンは立地が微妙な上に宣伝も特に打ってなかったんですよ。

だからわりとひまな日が多くて…いや、ほんとにひまだったんで働き始めて1年経った頃に

「このままだと店潰れるから下っ端の2人切って」とオーナー先生は税理士に言われちゃったため、

自分はその店を辞めることになりました。

あの店…なんで集客もせず売上もないのにアシスタント2人も雇ったんでしょうね…。

でもそれで簡単に切られちゃう程度には自分は店からして必要な人材ではなかったんだと思います。

 

次に入った美容室は地元横須賀にある美容室でした。

この店には9年半いましたね。それだけの時間いたので技術の基礎はここで教わりました。

本来なら感謝すべきことです。これはそれだけの大きな恩を受けたわけですから。

ですが、詳しくは下の記事に書いてある通り本当に苦しく嫌な思いをしました。

受けた恩よりも受けた暴言とそれによってできた傷のほうが明らかに大きいので、

ここの職場に対しては何らの感謝の念も持ち合わせておりません。持てるわけない。

モテたいとかの憧れで入ったわけじゃないから美容師は楽な仕事ではないのは親を見て知ってたけど、

だとしてもここで過ごした時間は本当に耐え難かった。耐え切れずに壊れました。

ご指名下さっているお客様に対しては本当に申し訳のない気持ちでいっぱいでしたけど…。

この会社の経営理念に「スタッフの物心ともに豊かな生活が云々…」ってのがありましてね、

それ毎年必ず1月のミーティングで言わされるんですけど、あの店にそんなもんなかったですよ。

うつ病になって退職しましたから。物心豊かにどころか心壊されたんでね。

 

【うつ病】逃げるってそんなに悪いことなの?【心の病】

    なんか今回のは話が重たいなって感じましたでしょうか…。 書いてる本人としてはそんなことないって思いながら書いてますので、 長くなりますが他の記事と同じように…

 

うつ病で美容師を辞めていた頃

前項にて地元の美容室で働いてたらうつ病になって退職したと書きました。

そのときはそこの美容室どころか美容師そのものも嫌になったので、自分は美容師を辞めたんです。

とにかく美容師というものから離れたかった。

かといって美容師以外にすぐに食っていけるような技能や資格は何もなく、

そのままでは精神科に通うだけのニートになってしまう。

何か高い時給が得られそうな仕事ないかな…と探してたんですよ。

風俗店スタッフも面接行ったりしましたけど、結局地元のパチンコ屋でバイトすることにしました。

パチンコもスロットも全く興味がなく、打ったことさえないのに。

単に時給が高いということだけで選んだパチ屋ですが、最初はインカムが聞こえず苦労しましたよ。

でも慣れてくると楽しいもんでしたね。

スタッフもお客さんも良く言えば個性的、別な言い方をすればキャラの濃いクセ者揃いで。

 

パチンコ屋でバイトしてた時の会話を振り返って考えるウクライナ情勢

    昨年始まったロシアによるウクライナ侵攻。 近年は途上国での内戦や、アメリカによる短期間の軍事作戦というのは時折ありましたけれども、 こういった形での国家間…

 

心を病む原因から離れて、環境が大きく変わっておもろい奴らに囲まれると、

しんどかった気持ちも少しずつ楽になっていくんですよね。

ラスト数ヶ月ぐらいは深夜のコンビニバイトも掛け持ちして働いてました。

この生活…いわゆるエッセンシャルワーカー的な職業よりも全然稼げてまして、

なんなら9年半働いてた美容室よりも給料もらえてて。それはよかったんです。

ただ…何て言うか、パチ屋で働くのも楽しいとはいえ…ふと自分の今後を考えたときに

「俺はこれからもずっとパチンコ玉を運ぶ人生でいいのか…?」

という思いが出て来るんですよ。自分自身が結婚するっていう話もあって。

このままじゃいかんよな、となったときに自分に何ができるか。

そう考えたときに「また美容師やりたい」という気持ちになれたんですよね。

そりゃね。好きで続けてた仕事ですから。

職場がクソすぎて美容師そのものまでも嫌になったとはいえ、本当はこの仕事好きなんですよ。

結婚して関西に引っ越すと話が決まり、このタイミングでもう一度美容師をやろうと決意しました。

 

関西で再び美容師として生きる

 

2017年。

生まれ育った横須賀を離れて関西で暮らすこととなり、どこで働こうかと悩みました。

都会がいいのか、郊外がいいのか、下町がいいのか。

1年ちょっとのブランクがあるだけでなく、それまで暮らしたことのない関西で働く…

いろいろと不安はありましたが、そんな自分を受け入れてくれたのは梅田にある美容室でした。

梅田店で働き始めてから1年と少し後に、新店が天王寺にできた際にそちらに異動しまして、

ここの系列ではトータルで3年半ほど働かせていただきました。

近年流行りのいわゆる『業務委託』の低価格帯の美容室だったんですけれども、

もう本当に多くのお客様が毎日途切れずに来るお店でしたね。

おかげさまでブランクがあったにもかかわらずとても多くの経験を積ませていただきました。

一緒に働くスタッフにも恵まれて、楽しく働くことができました。本当に感謝しています。

 

自分に子供ができたこともあり、家から遠くないところで働けたらなという思いもあり、

そのタイミングでお誘いをいただいたので上記の美容室から離れて別の美容室で働くことにしました。

場所は阪急塚口。2020年のことです。

ここの美容室は梅田と天王寺で働いていた美容室よりさらにお安い価格のお店で、

尼崎にお住まいの皆様にはご近所で大変通いやすい美容室だったんだろうと思います。

一応雇われとはいえ店長をさせていただいてましたので、

自分の働く店を繁盛させようという思いで頑張ってきたつもりです。

初めは少なかったお客様も順調に増え、予約でいっぱいのお店にできたんですけども…

かつての同僚であった上司と「今後どうするのか?」という話をしたんですよね。

役職に就いて残るのか、独立するのか。

自分としては「40歳までには独立したい」という非常にざっくりな目標はあったのですが…

このタイミングでぎっくり腰からのヘルニアになってしまったのと、

ちょうどいい物件が見つかったこともあり独立を選びました。

こういう話ってきっかけがあると一気にぽんぽんと進んでいきますよね。実感しましたよ。

 

こうして多くの皆様からのありがたいご縁と素敵なお力添えを得ることができまして、

2022年6月、ここ西宮の夙川にRicosを開業いたしました。

自分が美容師をやろうと思った『原点』を忘れることのない仕事をしていきたいと思っております。

その『原点』が今もあるからこそ、美容師っていい仕事だな楽しいなって思えるんですから。